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2011年3月29日 (火)

【大切な人に伝えてください】小出裕章さん『隠される原子力』

テレビで「基準値以下やから大丈夫、大丈夫」言うとう御用学者よりはこの人の話の方がよほど信用するに足ると思います。

京都大学原子炉実験所助教 小出裕章さん
【大切な人に伝えてください】『隠される原子力』
http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk

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2011年3月 7日 (月)

祝「わが愛しの渓流よ 永遠なれ/游 魚人」

A 我らが游サが4冊目の著作「わが愛しの渓流よ 永遠なれ」を刊行された。前著「渓流彷徨」が2003年の刊であるから、以降、約8年間の愉快な釣行記録である。

冒頭、福島昌山人、游サの鮎の師匠である松原哲雄、そして、だてや酔郷各氏への追悼文が置かれている。そして「ノータリンクラブ秘話」「ちょっとええ話―播磨テンカラ会設立秘話」に触れて、釣行記へと続く。そこには楽しげな游サの渓流ワールドが繰り広げられている。

文中、天子山人さんはもとより、播磨テンカラ会の面々もちょこちょこと顔を出す。私も游サと同行したあの釣り、この釣りが記憶の底から懐かしく蘇ってくる。

よ く釣れた話は少ないが、それだけに一匹、一匹が游サの心に深く豊かに刻まれるのであろう。例外は北海道のオショロコマである。「釣り師というのは勝手なも ので釣れ過ぎると却って面白くないのである。第一、釣りが雑になる。魚を大事に思わなくなる。過ぎたるは及ばざるが如し、とはよく言ったものだ。ほどほど に退屈しない程度に釣れる、それこそが釣りの理想である。」とある。漁師ではない渓流師の釣りはこれでよい。

游サは、多分、どこかご自分 のおかしみに気づいておられぬ節がある。それはいつも釣行のおりに連発される駄洒落よりは、よほどおかしい。游サを眺める播磨テンカラ会の面々の目はいつ もやさしく笑っている。そこを長屋の大家さんが語る与太話みたいにおもしろおかしく書き連ねたとき、さらに愉快な文章になるのではないかなと思う。

ペー ジを繰っていって、「魚信」という言葉にぶつかるたびに、私はなにか違和感を感じた。例えば「何度目かの大きな魚信で合わせたら」とか「手元にガツンとテ ンカラ独特の強い魚信が来た」といった箇所である。このテンカラの「魚信」とはいったい何なのか?游サは何でテンカラの合わせをくらわしておられるのか、 今度、会ったときに詳しく聞いてみることにしたい。

ノータリンな釣りとは、けっして釣れても釣れなかってもよかったという淡々とした枯れ たものではなく、かつて若き日のノータリンクラブが精力的に追い求めた「ツチノコ」や「テンカラ」、「長良川のシラメ」、「山陰のゴギ」、「佐渡の渓流 魚」といった未知なるものへの探索、いわば知的好奇心の探究にほかならない。そこがノータリンクラブの真骨頂であると私は見る。ノータリンな釣りとはノー タリンな生き方そのものなのである。

ともあれ序文に山人さんが「游さんの渓流釣り観は少なくとも一回りは大人になった」と書かれておられる。今後、さらなる游サの渓流師として、ノータリアンとしての円熟、熟成を楽しみにしている。

PS: 今回は、前著で小生の大好きだった游サのハイジャコ釣りの記事が一編も見受けられない。時速何匹というような競技志向の釣りになってしまい、たいせつな釣 り心をどこかに置き忘れてしまって、いつの間にか忘れられたような寒バエ釣り。晩年の山本素石さんがとくに好まれたというハイジャコ釣り、ぜひともノータ リン的なハイジャコ釣りの復活を強く望む。游サ、頼んまっせ。

【「わが愛しの渓流よ 永遠なれ」/游 魚人/友月書房/定価2000円/お問合せ:游サまで】

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